第13章 科学1 科学はどこまで信頼できるか

要約

原理として、私達はあらかじめ知らないことを知ることができる、ということを認めれば科学的手法と科学法則の存在を示すことができ、またこの原理の下で存在する法則はすべて科学法則であることが示せる。つまり信頼できる法則は科学法則だけであることが示せる。そしてこの原理は私達がこの世界に存在すると言っているのと同程度に自明の真理である。科学的手法には実験から法則を導く帰納的推論と論理によって法則を導く演繹的推論が存在する。どちらの場合にも現実を簡略化した模型であるモデルを使うことによって、簡便かつ強力な科学法則を見つけることができる。

目次

13.1 信頼できのは科学だけである

13.1.1 科学法則は信頼できる法則である

私達はあらかじめ知らないことを知ることができる

これまでは数学や物理を題材にして論理的思考や科学的思考について学んできた。 ここでは今まで学んだ思考方法はこの世の中に存在するあらゆる問題に適用できる極めて一般的な考え方だということを説明する。 科学をきちんと学ばないでいると現実と妄想の区別がつかなくなることがある。 科学とは何かをきちんと理解しないと妄想を現実だと思いこみ、学術的な面から実用的な面までありとあらゆる場面で不利益を被ることになる。 これからは個々の法則などからは少し離れて、科学そのものについて学んでいく。

何が正しくて何が間違っているのか? 何を正しいと決めて何を間違っていると決めるのか? そういった問いには深い哲学的な意味がある。 この章ではそういった観点から科学がどれほど信頼に足るものなのかを考えてみる。 結論から言ってしまえばこの世界には科学以外には信頼できる知識体系など存在しない。 以下そのことを説明する。

まず第一原理を一つだけ仮定する。 以下の議論はこの仮定が成り立っていないなら無意味なものになるが、ひとまず正しいとして議論を進めていく。 その仮説とは、

私達はあらかじめ知らないことを知ることができる

というものである。 私達はなんらかの記憶を持ち、また今まで知らなかった新しい感覚を感じることができる。 その記憶や感覚の正しさを問う必要はない。 ただ、記憶があり、感覚があるということだけは確かなことであると仮定する。 この仮定には前提として私という存在があること、それがさまざまな物事を感じることができること、その物事は知っている事と知らない事に分かれること、が含まれている。 このような、本当かどうかは分からないが、おそらく正しい、正しいように見える仮定のことを原理と呼ぶ。 そしてこの原理が正しいならば科学的手法によって科学法則を導くことができる。

科学法則は存在する

科学的手法とは、次の3つの手順により構成される科学法則を導くための手法である。1、すべての現象には原因があると仮定する。2、ある現象が起こったならその原因が満たされたと推測する。3、もし今その原因が満たされているならその現象がまた起こることが期待できる。この手順の3番目に得られる、ある原因にともなってある現象が起こるという期待のことを科学では法則と呼ぶ。つまり、この手順によって科学法則が得られる。

もし、私達があらかじめ知らなかったことを知ることができるのなら、様々な新しい現象を知ることができる。 すべての現象には原因があると仮定しているので、当然今知った新しい現象にも原因があり、その原因が満たされたからその現象が起こったのだと推測できる。 その原因が何なのかは推測するしかないが、もし次にその原因が満たされている状況が生まれれば、すでにその原因によって引き起こされる現象は知っているのだから、また同じようにその現象が起こると期待できる。 つまり、私達が新しいことを知れるのならば、科学法則を導くことができる。

さて、その科学法則の内容であるが、現象に原因があると仮定し、ある現象に対してある原因を推測し、もし今その原因が満たされているならその現象が起こると期待できる、というものである。 仮定、推測ときて、最後には期待で終わる。 これのどこが法則なのかと疑問を抱く人が多いと思う。 だが、科学法則とはそもそもこういったものである。 私達にできることはせいぜい、もしかしたらこうなるのではないか、という期待をかけることだけである。 絶対に正しい、という普遍の真理を見つけることはできない。

それは、私達はあらかじめ知らないことを知ることができる、という原理の中で、私達が知れることの内容が正しいか正しくないかを問わなかったせいである。 そもそも、知れること、記憶できること、の内容に間違いが含まれている可能性があり、私達はどうやっても、自分が知っている知識の中から法則を導かなくてはならないので、どんな真理を見つけたところでその真理に関係する記憶や感覚がすべて偽物である可能性が常にある。 どうあがいたところで全てが自分の感覚が狂っていたために起こった勘違いであることを否定できないので、絶対の真理など手に入れることはできない。 これは、原理的に不可能なことである。

しかし、絶対の真理をあきらめ、科学法則で満足するならば、私達の感覚に間違いが含まれていても問題はない。 あとはいかに期待を裏切らない、信頼のおける科学法則を見つけるかというだけの話になる。

13.1.2 信頼できる法則は科学法則だけである

法則とは何か?

これまでの議論は、私達はあらかじめ知らないことを知ることができる、という原理から科学法則を見つける手法が存在することが分かる、という議論であった。 これから、この原理の下で見つかる法則はすべて科学法則であるということを議論していく。

まずは、そもそも法則とは何か、という問題を考えていく。 法則というのは、あまねく全ての事象に当てはまる規則のことである。 規則というのは、常に2つ以上の事、物、あるいは概念の間の関係のことである。 ある概念に規則があるというのは、基準になる1つの概念があり、それに対してなんらかの関係を持つ他の概念があるということである。 概念が1つしかないところには規則は存在し得ない。

法則というのは必ず2つ以上の概念の間にある関係であることが分かった。 ではこの世界に存在する法則とは、どのような関係のことを言うのかを考える。 私達はあらかじめ知らないことを知ることができる。 つまり私達はさまざまな体験をする。 この体験になんらかの規則があれば、それは法則になり得る。

もしこの世界に存在する全ての物事、体験に当てはまる規則があれば、それは絶対普遍の法則になる。 しかし私達はすべての物事を知っているわけではないので、そんな法則を見つけることはできない。 もし全てを知っていたら、もうそれ以上新しいことを知ることはないのだから、私達はあらかじめ知らないことを知ることができる、という原理と矛盾する。 つまり、ある法則を見つけたとしても、それが自分がすでに知っている物事に当てはまるのは分かるが、まだ知らない物事にも当てはまるかどうかは分からない。 この世界に法則があるとしても、私達はそれを私達自身の体験からしか探ることはできない。 私達が手に入れることができる法則は、すべて経験から来る経験則でしかありえない。

そもそもにおいて、私達の持ちうる法則は経験から導き出す経験則でしかあり得ないということが分かった。 では、その経験則において最も信頼のおける法則は何かを考えてみる。 まず、この世界には私達がすでに知っているものとまだ知らないものがある。 経験則はすでに知っている事象のできるだけ多くに当てはまらなくてはならない。 そうでなければ経験則ではない。 しかし、全ての経験に当てはまる必要はない。 なぜなら私達は私達の記憶の正しさを仮定していないからである。 記憶が間違っていれば、法則が正しくても当てはまらない場合が出る。

さて、仮に自分の記憶している体験のすべてに当てはまる法則があったとする。 仮にそういう法則を見つけることができたとしても、私達は自分の記憶の正しさを仮定していない。 つまり、自分の体験の一部に記憶違いが含まれている可能性がある。 もし記憶違いがあるにも関わらず、すべての体験に当てはまる法則を見つけたとしても、その法則は本来なら一部の体験には当てはまらない。 間違って覚えていた内容に当てはまるのなら、実際の体験には当てはまらない場合があるからである。 こうして法則の当てはまる範囲を間違える可能性が常にある。 これはどうやっても無くすことのできない、法則の正しさの限界である。 つまり、私達がすでに知っている体験から法則を見つけたとしても、それが間違っている可能性は常にある。

このような、完璧とは言えないまでも自分の体験の多くに当てはまる法則を見つけたとしても、それではまだ法則として不十分である。 この世界には大きく分けて2つの物事がある。 既に知っている物事と未だ知らない物事である。 つまり既知と未知である。 私達の体験から見つけた法則は、既知の物事についてだけ、当てはまることが分かっている法則である。 未知の物事についてもその法則が当てはまっているかどうかを確かめる必要がある。

この世界には、私達がまだ知らない物事がある。 それらの物事にもその経験則が当てはまるのであれば、その法則はかなり信頼のおけるものだということが分かる。 とはいえ、まだ知らない物事に経験則が当てはまるかどうかを知るには、新しい物事を一つ一つ自分で体験して調べていかなくてはならない。 何度確かめてもその経験則が当てはまるなら、どんどんその法則の信頼は増していく。 しかし、全ての事象について試すことは原理的に不可能なので、いくら信頼が増しても、それは絶対の真理にはなりえない。

このように、もしも法則というものがあるなら、それは2つ以上の物事の関連性であり、経験則であり、またどんなに信頼を増そうとも間違っている可能性を完全に無くすことはできないことが分かる。 これは私達が正しいと仮定した原理の下で見つかる、あらゆる法則が満たすべき条件である。 これらの条件を満たさない法則は存在し得ない。 最も一般的な場合について考えているので、その法則が科学法則である必要はない。 だが、その一般的な法則が科学法則の持つ特徴と非常に似た特徴を持っている。 これから、これがまさに科学法則でしかあり得ないことを示す。

法則はすべて科学法則か?

法則とは必ず2つ以上の物事の間にある関連性である。 2つ以上の物事なのだが、単純に考えるために2つの物事の間にある法則を考える。 物事が2つあるのだから、それが既知の物事と未知の物事の間の関連性になっている場合がある。 常に既知の物事の間の関連ばかり考えるのは不自然である。 どちらかを既に知っていて、もう片方を未だ知らない物事の間にも関連を考えることができる。 もちろん、既知の物事の間にしか当てはまらない法則もあるだろうが、それは明らかに未知の物事にも当てはまる法則と比べて汎用性の面で劣っている。 なのでそのような法則は今後考えない。

この場合、非常に面白い現象が起こる。 それは、既に知っている物事から法則を利用して、未だ知らない物事を推測することができる、という現象である。 法則というのは、2つの物事の関連のことである。 なら関連の仕方が分かれば、片方の物事さえ分かっていればもう片方がどうなるのかが分かる。 このような場合に、あらかじめ既知の物事に法則で関連する未知の物事を見つけることを推測と呼ぶ。 こうして推測しておけば、未知の物事を知り本当に法則で推測しておいた物事と一致するかどうかを確かめることができる。

事前の推測と一致すれば、それはその法則が正しかったことを示し、一致しなければ法則が間違っていたことを示す。 もちろんその判断は私達の体験や記憶を元にするので、判断が間違っていることがある。 正しい法則を間違っていると判断するかもしれないし、逆に間違った法則を正しいと判断してしまうかもしれない。 それは絶対の真理を見つけることができないので仕方がない。 しかし、このような方法で法則がどれだけ信頼できるかを調べることができる。

そしてこの手法は科学的手法そのものである。 まず、法則で関連つけられているのが既知の物事と未知の物事である。 これは片方が原因に、もう片方が結果に相当する。 つまり結果には原因があると仮定しており、これは科学的手法の1番目を行ったことになる。

しかし、2つある物事のうち、どちらが原因でどちらが結果なのかをどうにか判別しなくてはならない。 そのために未知にも2通りの未知があることを利用する。 既知の物事に法則で関連する未知の物事には、知ることができる未知と知ることのできない未知がある。 私達はあらかじめ知らないことを知ることができるが、未知の物事を必ず知れるという仮定はしていない。 もちろん、どんなにがんばっても知ることのできない未知の物事もあり得る。 ここで既知の物事に法則で関連する未知の物事を知ることができる場合は、その既知の物事を原因、未知の物事を結果だと定義する。 逆にどうやっても知ることができない場合は、既知の物事を結果、未知の物事を原因だと定義する。 このようにしてこの法則で関連づける物事を原因と結果に分けることができ、この法則は原因と結果の関係を表すようになる。

このようにして原因と結果を定義することはできるが、問題は果たしてこの定義が日常の感覚で感じる原因と結果という概念と一致するかどうかである。 もしこの定義があまりに日常の感覚とかけ離れていたら、科学的手法の中で扱っている原因や結果という概念とは、言葉が同じだけの、まったく違う概念になってしまう。 だが、今の場合はうまく定義できている。 原因が既知であるだけならまだ結果は出ていないことがあり、うまくすれば未知の結果を知ることができる。 なので結果はどうやっても知ることのできない物事ではない。 一方結果が既知で原因が未知の場合、もう既に結果が出てしまっていて、それがどのような原因によるものなのかを後から知ることはできない。 つまり原因は見逃せばどうやっても知ることはできない。 よってこの定義は科学的手法の中で扱っている原因や結果という概念と一致する。

そして、この法則は原因と結果の関係を経験から推測したものであり、これは科学的手法の2番目を行ったことになる。 このようにして導いた法則がある時、ある原因が既知である時に未知である結果を体験することを期待しているのだから、これは科学的手法の3番目となる。 つまり、この法則は科学的手法によって得られる法則と同じものである。

私達は私達が定めた原理の下で、もし法則というものが存在するならどのような性質を持つのか考え、最も一般的な法則が持たなければならない性質について考えてきた。 そしてその最も一般的な法則が、実は科学的手法を通して得られる科学法則と同じものであることが分かった。 つまり、もしこの世界に法則というものが存在するならば、それは科学法則でなければならないことが分かった。

これは極めて重要な結論である。 なぜなら、私達の身の回りにはさまざまな法則があるがそれがすべて科学的手法によって得られる科学法則だというのだからである。 つまり、この世界に存在する信頼できる法則は科学法則だけである。

これらの議論は第一原理から論理的に導き出されたものである。 つまり、この原理が正しい限り論理的に正しい。 なのだが、あまりに強力な結論が得られたので、果たして本当に穴の無い論理展開になっているか、筆者自身半信半疑である。 なので結果を鵜呑みにせず、自分でよく考えるようにして欲しい。

13.1.3 原理はどれだけ信頼できるか

本当にその美女は狐ではないのか?

ここまでの議論をまとめると、私達はあらかじめ知らないことを知ることができる、という始めに正しいと仮定した原理が正しいなら、科学法則を導くための科学的手法が存在し、また、この世界に存在する法則はすべて科学法則である、というものであった。 途中の議論は論理的な整合性を持った議論であったから、原理が正しいなら結論は必ず正しい。 つまり、すべての法則は科学法則だということになる。

しかし、この議論は始めに正しいと仮定した原理が正しいなら成り立つ議論である。 もしも原理が正しくないなら、この結論には何の意味もない。 これから、果たしてこの原理はどれだけ信頼できるかを考えていく。

私達はあらかじめ知らないことを知ることができる。 これは別段当たり前の事のように感じるが、それはどれほど正しいのだろうか。 私達は目で物を見ることができる。 時には今まで見たことがない物を見ることもある。 光景、音、味、匂い、感触などの五感を通して私達は世界について知る。 それは既に知っている物事だったり始めて知る物事だったりする。

しかし、原理の中で言っているのは、このような意味ではない。 もっと根源的な意味で言っている。 私達の生きている環境は刻々と変化している。 例えば何の変化もなく落ち着いている室内を見渡してみても、そよ風が吹いていたり空中にほこりが舞っていたりして一瞬たりとも完全に同じ状況というものはない。 そういう意味において、私達は完全に同じ状況を2度と体験することはない。 つまり、私達が感覚を通して知る世界は、常にまだ知らない世界だということになる。 私達はあらかじめ知らないことを知ることができる、というのは、私達は私達が生きている世界を知ることができる、と言っているのと同じである。

そして私達は私達がどう世界を知るかについては何の仮定もしていない。 私達は私達の感覚が正しいかどうかについて、何の仮定もしてないのである。 例えば、あるところに人を化かす狐がいて、本来は狐にも関わらず美女に化けているとする。 その時その美女は本来は狐かもしれないが、私達はそれを美女として感じる。 何度見ても美女だと感じるし、何度でも化かされる。 しかし実際にはその美女は狐である。

このような場合、私達の感覚は常に間違っているのだが、それは科学法則にとってはなんら問題にならない。 もし美女を見たときの人々の反応に関する科学法則を見つけたとしたら、その法則は今の場合にもなんら問題なく当てはまるはずである。 なぜなら、常に美女と見間違うならば、それは本物の美女と何ひとつ違った感覚を私達に呼び起こさないからである。 単純な男にその狐の化けた美女を紹介すればさぞかし喜ぶだろうと推測することができ、実際に彼女を紹介すれば彼は喜ぶ。 そしてそれは常に正しい。 既知の原因に対して未知の結果を推測し、それが実現されるのだからこれは正しい科学法則である。 つまり、私達の感覚が間違っていようと科学法則は影響を受けず正しいままである。

狐が化けた美女と関わっていれば最後にはひどい目に遭い自分が化かされていたことに気がつくが、このような間違いは決しておとぎ話の世界の中だけの出来事だとは言い切れない。 実際に私達が日常的に体験する感覚においても同じことが起こっていないとは言い切れない。 このような間違いは日常的に起こり得る。 例えば色彩を感じる力は人によって異なる。 ある人にとっては白でも色を見分ける力の強い人にとっては極うすい赤に見えることがある。 だが、その色をその人物に見せた時の反応をよく観察し、そこになんらかの科学法則を見つけたとして、その色をその人物に見せた時の反応は常に変わらないのだから、その科学法則は影響を受けない。 音においても同じことが言える。

さらに言えば、すべての人がこのような間違いを共有していることも考えられる。 さっきの狐が化けた美女の例に限らず、目の錯覚という現象がある。 ある特殊な図形を見ると同じ長さの線を違う長さだと錯覚したり、平行線を斜線に錯覚したりする。 この錯覚がさらに強力なものになれば、五感すべてを錯覚させ、本来の姿とまるで違った姿を人に見せることも可能ではないだろうか。 そういう意味において身の回りにある物が、本当にその物の姿をしているのか、それを確かめることは難しい。 しかし五感すべてに錯覚を起こさせる特殊な物があったとしても、科学法則は影響をうけない。 重要なのはその物が別の物に与える影響に規則性があり、同じ条件なら同じ影響を与えることだからである。

このように考えていくと、私達はあらかじめ知らないことを知ることができる、という原理は、私達はこの世界から影響を受ける、というのとまったく同じだということが分かる。 知る、というのは非常に比喩に富んだ言い方で、実際には周囲の状況が記憶や感覚の変化を呼び起こすということを意味する。 この世界が私達を変化させるということである。 これは、私達がこの世界の中に存在すると仮定しているのとほぼ同じである。 なぜなら、私達がこの世界の中に存在するなら、私達の他に世界という何かが存在するということであり、それから何の影響も受けないならその存在に気づくことはないからである。 つまり、私達があらかじめ知らないことを知ることができるというのは、私達がこの世界の中に存在するというのと同じことである。

私達が確かに存在し、その状態が変化するのならば、その変化の様子を深く考察することで科学法則を導くことができるのである。 これらの仮定はどこまで考えても仮定でしかなく、絶対に正しいと言い切ることはできない。 しかしほぼ絶対に正しいと認めざるを得ない事実であり、この原理から導き出される科学法則は十分信頼に足る法則である。

13.2 正しい科学的手法の使い方

13.2.1 帰納的推論

亀の甲より年の功である理由

科学的手法の存在と科学法則の正しさについてはよく分かってもらえたと思う。 これからはそれを具体的にどう使うかを説明していく。 なんと言っても私達が発見できる法則は全て科学法則であり、科学的手法によって発見できるのだから、実用的な意味でそれは非常に重要なことである。

科学法則を見つけるのに一番てっとり早いのが、とにかく何度もやってみることである。 科学法則は原因と結果を結びつける法則であり、ある原因にある結果が対応する対応関係である。 ならばとにかく一度どの原因によってどの結果が呼び起こされるかを見れば、次に同じような状況に遭遇したら、同じようなことが起こると期待できる。 この、将来への期待が科学法則である。 この期待の確信具合は何度も何度も同じような状況を体験し、それに伴い何度も同じような結果が呼び起こされる様子を体験すればどんどん高まっていく。

これらの科学法則は普通、経験則と呼ばれる。 一時期に集中して特定の状況を体験すれば、すぐに見つかる法則なのだが、普通同じ状況を何度も何度も体験するのは難しいので、長年の経験の中から前にもこんな体験をしたという方法で導かれることが多い。 これは1つの原因に対して1つの結果が対応するのでとても簡単な法則だが、適用範囲が狭く応用が利かない。 このような経験則の例として、雨が降ると古傷が痛むとか、コーヒーを飲むと目がさえるとか、風邪をひいたらネギを焼いて首にまくといい、などといった法則がある。 これらは何度も何度も繰り返し似たような状況を体験することで、原因と結果の間に法則があるということを見つけた例である。

このようにして経験則を導くことができるが、その経験則が本当に正しい法則なのかは分からない。 原理的に科学法則は、それが間違っている可能性をなくすことはできない。 例えば自分が何度も経験したと思っている状況と、実際に体験した状況とが若干ずれているかもしれない。 そうやって導いた経験則を、何度も体験したと思っている状況と完全に同じ状況に当てはめることがあるかもしれない。 そうなるとその法則は本当は今の状況とは若干ずれた状況がどんな結果が呼び起こすのかを推測する法則なのだから、今体験している状況の結果を推測することはできず、推測を間違えるかもしれない。 この現象を体験している本人は、今まで正しく当てはまっていた法則が突然当てはまらなくなった、という様に感じる。 本人にとっては、今までの状況も今の状況も区別のつかない同じ状況であり、ならば同じ結果を伴うだろうと推測したのに、そうならなかったと感じる。

このような状況になったら今まで正しいと思っていた法則を、実は間違っていたとして作り変えないといけない。 私達の手に入れることができる法則はすべて科学法則であり、科学法則は間違っている可能性を否定できないので、こうなったら作り変えるしかない。 問題はどう法則を作り変えるかである。

一番簡単なのは、これはもう法則ではないと言って全てをあきらめてしまうことである。 確かに当てはまる場合と当てはまらない場合があるのでは、それはもはや法則ではない。 しかし、これはあまり賢い方法とは言えない。 当てはまる場合も確かにあるのだから、それを捨ててしまうのはもったいない。

次に簡単なのは、この法則は確率的にしか当てはまらないと言い換えることである。 当てはまる場合もあり、当てはまらない場合もある。 ならば何度も試して当てはまる場合と当てはまらない場合の比率を求めて、その法則がどれだけ信頼のおける法則なのかを確かめるのである。 今までは絶対に当てはまると言っていたのを少し弱めて、これくらいの割合で当てはまると言い換えれば、それは確かに正しい法則となる。 始めから当てはまらない場合もあるということを法則の中に含めてしまえばいいという訳である。 当てはまらない場合が非常に少ない割合でしか現れないのならば、危険はあれど実用的な法則として使い続けることができる。

そして一番難しく、かつ強力なのが法則をより正確に作り直すことである。 そのためには法則が当てはまる場合と当てはまらない場合の微妙な違いを見つけなくてはならない。 原因となる状況が微妙に違うから結果も異なるのであって、その微妙な差を見つけ、その法則が当てはまる状況をより正確に理解すれば、場合によって当てはまったり当てはまらなかったりということはなくなる。 科学法則は常に間違っている可能性を含んでいる。 その間違いが表に出たときは、今まで分かっていることを踏まえてもっと正確な法則を作る。 この繰り返しによって科学法則はどんどん正確さを増し、信頼できるようになっていく。

このような議論の仕方を帰納的推論と呼ぶ。 帰納的推論とはたくさんの事象を調べ、その共通点を探り出し法則を見つける、科学的手法そのものを使った推論方法のことである。 これは科学的手法そのものなので、すべての法則は帰納的推論によって導かれることになる。

現実を作り出す

このように長い時間をかけて同じような体験を何度も繰り返すことによって経験則を見つけることもできるが、それはあまり効率的ではない。 より効率的に法則を見つけたいのであれば、積極的に同じような状況を何度も作り出し、それがどのような結果を呼び起こすかを調べれるのがいい。 このように自分である状況を作り出し、それがどのような結果になるかを調べる作業を実験と呼ぶ。

ある状況を自分で再現するといっても、厳密な意味で完全に同じ状況を再現するのは不可能に近い。 なので見分けがつかない程度に同じ結果が得られるなら、同じ状況を再現したとするしかない。 このように実験をするにはまず、どの程度の違いを許容してどの程度の違いを許容しないかという判断をしなければならない。 この、現実とは若干違うが、その違いを許容した実験しやすい状況のことをモデルと呼ぶ。

モデルというのは英語で模型のことである。 何かを説明するときに言葉だけでなく図や身振り手振りを使うと説明がしやすくなる。 同じように、実際の状況を表した小さな模型を作って、その模型を手にとって動かしながら物事を説明すると説明が分かりやすくなることがある。 この模型のように、本来の状況とは違うが、その状況を表すように実験しやすい別の状況を作り、そこで原因と結果の間の法則を見つけるのだから、モデルと呼ばれるのである。

このようなモデルには様々なものがある。 日常的に出会うモデルの一つにアンケートがある。 アンケートとは、例えばある商品のできを測るためにお客にどれだけ満足したかを答えてもらうものである。 それを集めて平均して、どれほどその商品がよくできているかの目安にする。 これは、実際に知りたいのはその商品を買った人全員の評価なのだが、それを調べるのは無理があるので一部だけを調べて、その結果を全員の評価と同じとして扱おうというモデルである。 1万人の中から100人を抜き出してアンケートをとっても、その抜き出し方に偏りがなければ1万人の評価も100人の評価もほとんど同じはずで、その違いは許容できる場合が多い。 なのでこのようなモデルは非常に有効で、日常的に使われる。

他の例としては料理の練習などがある。 料理の味付けや作り方を覚えるのに、いちいち全員分作っていたのでは材料がいくらあっても足りない。 そういう時はひとまず1人分だけ作ったり、もっと少ない量、半人前や一口分だけ作れば効率がいい。 しかし、本当に知りたいのは4人分などの大人数分作る時の味付けや作り方である。 1人分の作り方も4人分の作り方も、単に材料の量を4倍するだけでほとんど同じになる。

しかし、やはり厳密に同じというわけではないので、これはモデルである。 つまり、1人分の時にうまくいく法則を見つけたとしても、それがすぐさま4人分の場合にうまくいくとは限らない。 これは100人分や1000人分の料理を作るときに深刻な問題となる。 1人分の料理を作る方法で1000人分の料理を作ることは普通できない。 つまり1000人分の料理を作る作り方を見つけるのに、1人分の料理を作る実験をモデルとして使っても、そのモデルは現実とは合わない。 このような問題はスケール問題と呼ばれ、実用的な面で様々な場所に顔を出す。

このようにモデルは現実を簡単にして再現するもので、モデルを使って見つけた法則がそのまま現実にも当てはまるとは限らない。 もしも、モデルが現実を簡単にしすぎていたら、モデルをもっと精巧に作りなおさないといけない。 そうすれば、より現実とモデルの差がなくなるのだから、正しい法則を見つけることができるかもしれない。 例えばアンケートの例ではアンケートを取る人数を増やしたり、料理の例では一度に1人分ではなく10人分を作ってみる。 このようにモデルの規模を大きくして現実の状況に近づけることで、モデルがきちんと現実の状況に当てはまる法則を導く期待が高まる。 もしモデルを改良してもまだ正しい法則を導けなかったら、さらにモデルを作りなおさなくてはいけなくなる。 そういう場合は、今まで本質的でないと思って省略し、モデルに入れていなかった要素が実は最も重要な要素であったりする。 またはまだモデルの大きさが足りない場合もある。 いずれにせよこれを続けていけばやがては十分に正確なモデルができあがり、正しい法則を見つけることができる。

このように実験とモデルを利用して科学法則を導くことができる。 これは実際の科学研究の場でもよく行われていることである。 例えばロケットを開発したいなら、まずは鉛筆ぐらいの大きさのロケットの模型を作り、少しの火薬を使ってそれを飛ばすことから始める。 新薬を開発したいなら、いきなり人間に試さずにまずはネズミに効くかどうかを試す。 隕石が天体に衝突したときの影響を調べたいなら、速度や大きさの比率を考えて隕石や天体の模型を使って、実際に衝突させる。 このように、新しいモデルを作っては実験し、その結果を見てモデルを改良し、の繰り返しによって科学法則は発見されている。

13.2.2 演繹的推論

風が吹けば桶屋が儲かる

ここまでは帰納的推論によって科学法則を見つける方法について説明してきた。 だがその他にも科学法則を見つける方法はある。 それはいくつかの原理や法則をひとまず正しいと仮定し、それらの下で論理的に推論を進め法則を発見するという方法である。 この方法は演繹的推論と呼ばれる。 これからは演繹的推論について説明していく。

演繹的推論をするためにはまずは信頼できる原理や法則を用意しなければならない。 それらの原理や法則は実験や経験から帰納的推論によって見つける。 これらはその後議論を深めていくための前提となる。 そうして前提が用意できたら、様々な法則をそれらの前提から論理的に考えて導き出すことができる。 それらの前提が正しいと仮定したら、論理的に考えて他にも正しいと言える法則がある、という様に法則を発見していくのである。 これはこの世界に存在する法則がすべて科学法則であるという議論をしたときにしたことである。 その事実は、私達はあらかじめ知らないことを知ることができる、という原理を正しいと仮定し、そこから論理的に考えて導き出した。 これと同じことを様々な前提の下で行うのである。

例えば生きとし生けるものは全て最期は天に召される。 これは日常的な経験から帰納的に導かれる科学法則であり、その正しさはほぼ疑うべくもない。 一方、私達は生きている。 これもほとんど疑うべくもない科学法則である。 となると、この2つの法則を前提として論理的に考えると、私達はいつか必ず死ぬという新しい法則が導かれる。 私達は生きていて、生きているならいつかは死ぬのだからそうなる。 これは前提になっている法則2つが正しいなら常に正しい法則である。 私は死んでしまえばもうそれを感じることはできないので、この法則を実験で見つけることはできない。 試しに死んでみることはできないからである。 このように演繹的推論では実際に実験することが困難な場合の法則を見つけることができる。

始めに原理を仮定して新しい科学法則を論理で見つける知識体系にニュートン力学というものがある。 ニュートン力学のもつ原理は、力が働いていなければ止まっている物は止まり続け、動いている物はその運動を続ける、加速度は力の大きさに比例し質量に反比例する、ある物が別のある物に力を働かせる時は必ずその物から同じ大きさの反対向きの力が働く、の3つである。 この3つの原理はすべて実験から帰納的に導かれた物である。 これらの原理が本当に正しいのかどうかは分からない。 ただ実際にこの世界で起こっている物の運動を調べたら、こうなっていることが帰納的に分かったのである。

この3つの法則を正しいと認めれば、導出過程は省くが、太陽系の天体が楕円を描いて太陽を回ることが分かるし、重力下で物を投げ上げると方物運動をすることが分かるし、同一重力下なら重い物も軽い物も同時に落ちることが分かる。 たった3つの法則から多種多彩な科学法則が導かれる。 この手法は何か機械を設計するときなどに、試しに小規模なモデルを作る前に、そのモデルがどんな動作をするのかをあらかじめ予測するのに使えるし、実際に実験することが難しい特殊な状況で何が起こるかを予測するのにも使える。

このように演繹的推論は実際に体験したり実験することが難しい場合にも使うことができる非常に強力な手法である。 しかしこれは実際に体験した体験から見つけた法則ではないので、現実とはまるで違う法則を見つけたと勘違いしてしまうこともある。 風が吹けば桶屋が儲かるという落語があるが、同じように論理的に考え続けた結果、現実からかけ離れた結論を得てしまうことがある。

そういう場合には2通りの原因がある。 まず第一に考えるのは論理的に正しい結果だと思っていたが、実は論理のどこかに穴が開いていて間違った論理展開をしている場合である。 こういう場合は注意深く議論の流れを追っていけば間違いを見つけ、正しい法則を見つけることができる。 もう一つの場合は前提に間違いが含まれている場合である。 正しいと仮定した原理や法則の中に間違いが含まれていれば結論はもちろん正しくない法則になる。 この場合はいくら途中の議論の流れを調べても間違いは見つからない。 前提が間違っていればいくら頑張って作った議論も水の泡である。 逆に言えば演繹的推論が間違った法則を導くのはこの2通りの場合だけである。

この2通りの原因のうち、論理に穴が開いている場合はそこまで深刻なことは起こらない。 注意深く探せば必ず間違いが見つかるからである。 そもそも始めに議論を進めるときに十分注意すれば、そのような間違いは犯さない。 しかし、前提が間違っているときは非常に困難を伴う。 前提が間違っているならどこが間違っているのかを見つけ、そこを直せばいいのだが、普通、議論の前提とする原理や法則はほぼ疑うべくもないような物を選ぶので、簡単にどこが間違っているのかを見つけることはできない。 では論理の展開が間違っているのかと調べても、そんな間違いは見つからない。 そしてどこが間違っているのかが分からずに立ち往生することになる。

このような立ち往生を何度も何度もくりかえして科学は発達してきた。 ある原理から論理的に議論を進めて見つけた法則が、実際の実験から得られた法則と一致しない。 理屈と現実が一致せず、それがなぜなのか誰も分からない。 そんな混乱を何度もくりかえし科学は発達してきた。 このような時に誰しもが絶対に正しいと思ってきた原理が、実は間違っていたことが分かる。 そしてさらに深い真理に取って代わられる。 このようにして科学は発達する。

なぜそうなるのかを説明する

演繹的推論は実験や経験を通して帰納的推論で得た法則に、なぜその法則が正しいのかという理由を提供する。 ある原理を仮定してその原理から論理的に考えて実験で得た法則と同じものが導かれたなら、それはその原理が正しいからその法則が正しいのだという、法則が正しい理由を説明する。 演繹的推論にはこのように、今知られている法則の間にある様々な関係を導くという役割もある。

帰納的推論のためのモデルというものを説明したが、演繹的推論のためのモデルというものも存在する。 実験で使われるモデルと区別するために、それは理論モデルなどと呼ばれる。 実際に形のある模型を作るのではなく、理論の上に模型を作るのである。

科学的手法ではある現象が起こったとき、それはなんらかの原因が引き起こした結果であると仮定している。 そしてその原因が何であるかを推測するのだが、この推測の段階で作るのが理論モデルである。 作るといっても考えるだけであるが、思考の中では具体的になんらかの要素をもった物事を作り上げることになる。 その現象に関わっている原因が多ければ、あれとこれとそれが原因となってこの結果になった、という言い方をする。 後でもっとよく考えて、もう1つ原因を見つければ、今まで考えておいた原因の集まりにそれを追加する。 これはまるで、実際に手に取れる模型を作っていて、後から部品を追加するようである。 そういう意味において、頭の中で作り上げているものはれっきとした模型であり、モデルである。

例えばある企業がライバル企業と似た商品をほぼ同時に発売したのに、自分の商品はほとんど売れずライバル企業の商品だけどんどん売れているという状況があるとする。 これは、ある商品を発売したときにそれが売れるか売れないかという法則を見つけたことになり、科学法則を見つけたことになる。 そこで、なるほど、自分達の商品は売れず、ライバル企業の商品は売れるという法則が見つかった、と言ってそれで話を終えてしまったらどうしようもない。 商品が売れなかったら会社が潰れて給料が出なくなって生活ができなくなる。 なんとかして自分達の商品を売らなくてはならない。

こういう場合に便利なのが理論モデルである。 少量の試作品を多種類用意してそれを試しに売ってみて、反応がよかった商品を大々的に売り出すという、モデルと実験によって売れる商品の法則を見つけるという手もあるが、それでは時間がかかり過ぎるかもしれない。 既にライバル企業が売れる商品を発売しているのだから、その特徴をよく観察して、こういう商品は売れるという法則を見つけた方が楽だと期待できる。

ではさっそく理論モデルを作ってみる。 理論モデルというのは原因の集まりである。 今の場合はライバル企業の商品が売れる原因の集まりである。 商品が売れるには買う人がいなくてはならない。 買う人がそれを買うには代金を払う必要があるのだから、商品の値段が重要な要素になると推測できる。 また、商品を買うのに十分なお金があっても、実際にその商品を売っている所に行かなければ買うことはできない。 その商品がどこで売られているかも関係してくる。 他にも買う人がそいういう商品が存在するということを知らなければ買いようが無いのだから、知名度も重要になる。

このように考えいけばよく売れる商品の理論モデルが出来上がる。 理論モデルが完成したら、今度はそれを使って自分の商品とライバル企業の商品とで、どちらがより売れるかを推測することができる。 例えば、知名度もお互いにほぼ同じ、値段も商品の質もほぼ同じなのに売り場に違いがあって、売り上げに差が出ていることが分かったりする。 このように、実際に売ってみて売り上げに差が出たという経験則では、単に差が出ただけでそれがどうしてなのかは分からなかったのが、理論モデルを作り今の状況をそれに当てはめてみることで、どうして差が出たのかが分かるようになる。 どうして売り上げに差が出たのかその理由が分かれば、そこを改善すればライバル企業に太刀打ちできるようになるかもしれない。

しかしこのような理論モデルの使い方には注意しなければならないことがある。 それは、モデルはモデルであり、現実ではないのだということである。 つまり、頑張って理論モデルを作ったはいいが、必要ないと思って考えに入れていなかった部分が最も重要であるかもしれないのである。 それはクチコミによる宣伝効果かもしれないし、商品の名前の語呂がよくてウケたのかもしれない。 もしこれらの要素が最も重要な原因だったら、それをモデルに組み込まないで済ませてしまっていたら誤った結論を導くことになる。

理論モデルが現実をうまく表現していないということが分かれば、実験のモデルにしたように、モデルを改良する必要がある。 今まで考慮に入れていなかった原因を新たに追加したり、重要だと思っていたが実はほぼ何の影響もない原因を削除したりする。 追加とか削除と言っても、やることは単に頭の中で考えている内容を変えるだけである。 今までこれとそれとあれが重要だと思っていたのを、少し見方を変えて考え直してみるだけである。 実際に形のある模型を作り直す必要はないので、とても簡単で便利である。

このように理論モデルを作るのは簡単であり、とても手軽なので時に実験のモデルより先行することがある。 実験によって見つかったわけではないが、もしもこの原理が正しいならこういう法則が導かれるとか、こういう経験則があるからそれを説明するためにこういう原理が正しいと仮定したら別のこういう法則も導かれる、などといった様にである。 そうやって仮定に仮定を重ねて論理を展開していき、どんどん理論モデルを大きくしていくことができる。 そうすると、まだ誰も実験したことがないから正しいとも間違っているとも言えないが、もしかしたら正しいのではないか、といった科学法則が出てくる。 それは正確には科学法則ではないのだが、もしもこういう原理が正しいなら正しい科学法則であることが分かる、という論理になっている。 このような、まだ実験で正しいと確かめられたわけではないが、もしかしたら正しいのではないか、という科学法則のことを仮説と呼ぶ。

科学の研究の場ではこのような本当に正しい法則なのかよく分かっていない仮説を本物の科学法則にするための研究が行われている。 例えばその仮説の状況を本当に作り出し実験して仮説が予測する結果が得られるかどうかを調べる。 またはその仮説が正しいなら既に正しいと分かっている法則も正しく、逆にその仮説が間違っているなら既に正しいことが分かっている法則も間違いでなければならないような論理の構造を見つけるなどする。 このようにして仮説の真偽を確かめるのが科学研究である。 ちなみにこの仮説の真偽を確かめる作業を実証と呼ぶ。 科学は仮設を立て、それを実証する作業の繰り返しによって発展していく。

言うまでも無いことだが、このような研究の結果、これまで正しいと思われてきた仮説が間違っていることが分かったりする。 逆に間違っていると思われてきた仮説が実は正しいことが分かったりする。 そういう時はもちろん、いままで正しいと思ってきた説を捨て、新しい説を受け入れなくてはならない。 それは進歩であり、なんら気後れする必要はないのだが、人間どうしても数十年と正しいと思い込んでいた説が間違っていると言われても、それを受け入れられない場合がある。 そうならないためには普段から私達が知ることができる法則はすべて科学法則であり、科学法則は間違いを含んでいることを原理的に取り除くことはできないということを重々肝に銘じておき、絶対の真理など私達の手の届かない遠い所にあるのだと、謙虚な心を持っておく必要がある。

13.2.3 科学法則の例

日本語という科学法則

これまではこの世界に存在する法則についての哲学的な問いや、科学的手法を2分する大きな分類である帰納的推論と演繹的推論について説明してきた。 これからはそれらの手法を使って導かれる具体的な法則について少しだけ説明していく。 次章以降はこれらの法則を題材にして概念を説明していく。

まずはじめに紹介したいのが日本語の文法である。 日本語の文法は科学法則そのものである。 そう言われると面食らう人が多いと思うが、この世界に存在する法則はすべて科学法則であることを思い出して欲しい。 言葉の文法もこの世界に存在する法則なのだから科学法則である。

では本当に日本語の文法が科学的手法によって得られることを確認する。 日本語に限らず、言葉の役割は自分の知っていることを相手に伝えることである。 私達はある言葉を発して、それを相手が聞いて、自分の思う通りの反応を返してくれれば相手に自分の意図が伝わったと判断する。 とはいえ、自分は相手ではないのだから、本当に相手が自分の意図を理解したかどうかは推測するしかない。 ここに科学的手法が使われている。 つまり、自分の言葉が原因で相手の反応が結果である。 何度も試しているうちに、ある一定の言葉を使えば、ある一定の反応が帰ってくることが分かる。 そしてこういう言葉を言えば、こういう反応が返ってくるという経験則が得られる。 これは言葉の文法そのものである。 そして経験則は科学法則である。 ならば日本語の文法は科学法則である。

他にも実用上重要な科学法則としてビジネスモデルというものがある。 ビジネスモデルというのは、これをすればお金が稼げる、というビジネスにおける科学法則である。 モデルと名前がついているように、これは論理モデルの形になっていることが多い。 つまりビジネスにおける論理モデルである。

ビジネスモデルは、とにかく働けばお金が稼げる、という漠然とした概念をよく分析し、ビジネスの構造を解明した理論モデルである。 この法則は、これだけの仕事をしたら、これだけの利益が上がるという予測をする。 これはれっきとした科学法則であるので、科学的手法によってしか得ることはできないのだが、往々にして妄想をたよりにビジネスモデルを作って事業を起こし、借金地獄に陥る人が少なくない。 新しい事業を始めるときは重々気をつける必要がある。

もっと数理的な法則の例を上げると、アクセスランキングの法則というものがある。 ウェブサイトの人気ランキングや検索エンジンの検索結果などは、特定のサイトへのリンクを画面の上から下へ順番に表示する。 この法則はそのランキングからの特定のサイトへアクセスが、そのランキング上の順位が増えるに従って指数的に減少するという法則である。 次章以降、実験によってそれを確かめ、さらにその法則を生み出す人間の行動の論理モデルを作る。

また、収穫加速の法則と呼ばれる法則というものもある。 これは技術の発達する速度が指数的に速くなるという法則である。 技術の発達という現象を農作物の収穫に例え、その速度が加速していくということである。 この現象は人間の文明活動のいたるところに見られ、近年では特に計算機産業に際立って現れている。 これは一言で言えば、農作物が採れて生活が豊かになれば、子供を沢山育てることができ、やがてその子供達も仕事を手伝ってくれるようになるので作物を収穫する速度が早くなるということである。 これも次章以降詳しく論じる。

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